― 世界最高峰の舞台で夢を追い続ける若き挑戦 ―
小椋藍は、世界最高峰クラスをレギュラーで走る唯一の日本人ライダーです。最高時速350キロを超えるモンスターマシン、MotoGP™マシンに今季から乗り始めました。MotoGP™クラスに参戦しているのは全部で22人。小椋は、その世界トップ22人のひとりなのです。
たとえるなら、日本人ハリウッド俳優のような存在です。ですが、藍は〝会いに行ける世界最高峰クラスライダー〟でもあります。日本滞在中の多くの日は、ミニバイクコースやオフロードコースにいます。貸し切りではなく、一般ライダーにまじって走っているのです。そして、話しかけられれば気さくに応じてくれます。最高峰クラスの参戦を開始してから変わったことといえば、トレーニングバイク用のトランポが大きく、使い勝手のいい車になったことくらいです。
藍のバイク人生の始まりは、ほかのGPライダーと同じくポケバイでした。元ライダーの父、オリンピック強化選手に選ばれた経験を持つ元柔道家の母のもと、2001年1月26日に藍は誕生しました。2学年上の姉・華恋が3歳でポケバイを始め、藍もその後を追うように3歳でポケバイに乗り始めました。
「気づいたら乗っていました」
小学校に上がってからもサーキット通いは続きました。授業が終わる時間になると、両親のどちらかが校門前にトランポをつけて待っていたのです。
「目標はGPライダーでした。小さいころから見ていたから。職業という感覚ではなく、“これになる”と決めていました。気づいたらそうなっていました」
小学3年生でミニバイク、中学生でロードレースにステップアップ。GPライダーを目指してアジアタレントカップのセレクションに参加し、見事に合格しました。
「初海外で英語も分からず、ツアーに入れてもらって行きました」
佐々木歩夢、鳥羽海渡とは同学年です。ふたりは先にアジアタレントカップで活躍していました。藍は彼らに追いつき、追い越すつもりで努力を続け、MotoGP™ルーキーズカップ、CEV(スペイン選手権)へとステップを進めました。
2019年。18歳になった藍はMoto3™クラスでGPデビューを果たします。14戦目で2位表彰台を獲得し、2年目にはタイトル争いを展開しました。翌年の2021年にはMoto2™クラスに昇格。ここでもまた、2年目にはタイトル争いに加わりました。
2019年に世界選手権へ参戦を開始したとき、所属したのはホンダチームアジアです。元GP250世界チャンピオンの青山博一が率いるチームで、ヨーロッパで戦うライダーのためにスペインに拠点が用意されていました。Moto2™とMoto3™のチームアジア所属ライダー4人が共同生活を送り、個室で暮らしながらトレーニングを行うなど、GPライダーとして成長するために最適な環境が整えられていました。
藍はMoto3™で2年、Moto2™で2年、合計4シーズンをホンダチームアジアで過ごしました。
そして参戦5年目となった2024年。藍はホンダチームアジアを卒業し、MSiレーシングに移籍しました。MSiレーシングは前年までMoto3™のみに参戦しており、Moto2™参戦は初年度でした。さらにこの年からMoto2™はコントロールタイヤがダンロップからピレリに変更。マシンもカレックス製からボスコスクーロ製へと変わり、新しいことばかりでした。しかし藍は見事に対応し、大きく飛躍します。シーズンを2戦残してタイトルを獲得。初めてのチャンピオンに輝いたのです。
同世代の鳥羽はアジアタレントカップで、佐々木はMotoGP™ルーキーズカップでそれぞれタイトルを手にしました。鳥羽と佐々木は2000年生まれ、藍は2001年1月生まれ。同じ学年ですが、いつも彼らに先を越されていました。しかし、このとき藍は彼らに先んじて世界タイトルを獲得したのです。
そして今季、藍は最高峰クラスに昇格しました。選んだのは、2024年からMotoGP™に新規参入したトラックハウスMotoGP™チーム。マシンはアプリリアです。新しいクラス、新しいマシン、新しいタイヤ。子どものころから夢見ていたMotoGP™ライダーとして、ついに最初の一歩を踏み出しました。
藍がいつも口にしているのは「一戦一戦、しっかり戦っていきたい」という言葉です。そのフレーズを胸に、最高峰クラスのルーキーシーズンに挑んでいます。
小椋藍のMotoGP™クラスのルーキーシーズンとなった今年の開幕戦の舞台はタイでした。ここ数年はカタールのナイトレースが開幕戦として定着しつつありましたが、今年は久しぶりにデイレースでの開催となりました。タイGPが開幕戦となるのは初めてです。さらにタイ人初のMotoGP™ライダー誕生も重なり、開幕前から例年以上に華やかなイベントが催されました。その光の中で、藍は精いっぱいの笑顔を振りまきました。
開幕戦で藍は予選5番手を獲得。初めてのスプリントでは4位、決勝では5位という好成績を収めました。
「土曜日のスプリントではペッコ(2022年・2023年MotoGP™チャンピオンのフランチェスコ・バニャーヤ)の後ろを13周も走ることができたことが一番大きかった。本当に質の高い周回だった。決勝ではフランコ(モルビデリ)の後ろを走ることができたし、上位にはドゥカティライダーが3人いた。彼らから本当に多くのことを学びました」
シーズンを好スタートで切った藍。しかし、世界最高峰クラスはそれほど甘くありません。第2戦アルゼンチンGPではトップ10フィニッシュを果たしたものの、レース後にマシンのホモロゲーション違反が発覚し、失格となってしまいました。
その後も、初めてのフラッグtoフラッグや、タイヤマネージメントの失敗などを経験。藍はルーキーとして、毎戦ごとに新しい学びを積み重ねていきました。
第7戦イギリスGPでは、初日に転倒して膝を負傷しました。
「タイミングとプッシュの量が間違っていて転倒してしまいました。その後、右膝の調子があまりよくなかったので、午後の練習は欠席することにしました」
大事には至らなかったものの、その後の走行はキャンセル。ヨーロッパの拠点としているスペインに戻り、手術を受けることになりました。
そして第9戦イタリアGPで復帰。「目標は完走」としながらも10位でフィニッシュし、力強い走りを見せました。
こうして、最高峰クラスで負傷・欠場・復帰という一連の経験を済ませた藍。世界最高峰クラスがいかに厳しい場所であるかを思い知らされるシーズン前半戦となりました。
「最初の2、3戦は、いい意味でバイクを理解できていなかったから、行けるところまで行けました。それがいい方向に働いたのだと思います。どんどんバイクを理解していくにつれて、見えなくてもよかった部分が見えてきたりしました。でもそれはMotoGP™に乗る前から予想していたことです」
前半戦を振り返り、そう語ります。
「気にしていない訳ではないけれど、問題だとは思っていません。ここから積み上げていけたらいいなと思います」
シーズン前半戦のベストレースは、第2戦アルゼンチンGPでした。15番手グリッドからスタートし、8番手でゴール。
「ウイーク中の流れを日曜日にうまく変えられたし、レース内容もよかったです」
ただし、このレース後にECUソフトウェアが未承認バージョンであることが判明し、失格となりました。チームは「藍は何のアドバンテージも得ていない。すばらしいレース展開と藍がトラック上で披露したすばらしいパフォーマンスは本物だ」とコメントしています。
ルーキーにとって怒濤の前半戦。その中でチームスタッフはこう語ります。
「藍は最初、アプリリアを純粋な本能と才能で走らせていた。しかし転倒の少ないライダーだった藍も、クラッシュの数を重ねるようになった。今は『本能で走る』から『バイクを理解して走る』へと移行しなければならない。それは本人も重々承知しています」
MotoGP™では、初日に午前中のフリー走行、午後にはプラクティス。二日目にスプリント、三日目に決勝といったスケジュールが組まれています。これまでとは違うレースウイークの流れに合わせた準備も求められました。
「一歩一歩、一つできたら次って感じです」
今はただ全力で、自分の持てる100パーセントを出し切るのみです。
小椋藍が世界グランプリに参戦を開始したのは2019年です。この年、藍は初めてMoto3™で母国ラウンドを経験しました。しかし母国とはいえ、イデミツ・アジア・タレントカップで育った藍は、モビリティリゾートもてぎでの走行経験は少なかったのです。
「普段よりも声をかけていただくことも多く、慣れていないので緊張しました」
その緊張からか、予選では計測1周目に転倒。それでも初日にQ2進出を決めていたため、18番手グリッドと最悪の事態は避けられました。しかし決勝ではうまく走りをまとめられず14位。レース後はピットでうなだれ、なかなか顔を上げることができませんでした。
翌年はコロナ禍に突入し、シーズンスケジュールが大幅に変更。日本GPは2年連続で中止となりました。
Moto3™参戦2年目の2020年にはタイトル争いに加わり、ランキング3位を獲得。2021年にはMoto2™へステップアップを果たしました。
Moto2™クラスでの日本GP参戦は、Moto2™参戦2年目の2022年。3年ぶりの開催となった日本GPに、藍は大きく成長して帰ってきました。激しい雨に見舞われて赤旗中断を挟んだ予選は13番手。
「2019年の予選転倒を繰り返す訳にはいかないから、最後にベストタイムを出すつもりでした。でも15分という予選セッションでも短いのに、それが9分になってしまったのは痛かったです。でも、13番手グリッドからスタートして表彰台に上がれたらいいですよね。上がれたらうれしいです」
決勝では一転して晴れ渡りました。スタートを決めた藍はオープニングラップで5番手に浮上。2番手走行中のフェルミン・アルデゲールが3周目に、トップ走行中のアロン・カネトが4周目に転倒。これで藍、ソムキャット・チャントラ、アロンソ・ロペスの争いがトップ集団に。
「一度、落ち着いて冷静になる時間がもらえたのがよかったです」
レース後にそう振り返った藍。
「アロンソがブレーキで振られて止まれない感じだったから、前に出て自分のペースで走った方がいいと思ったんです」
13周目にトップに浮上し、そのまま独走優勝を飾りました。日本GPでの日本人ライダー優勝は16年ぶり。所属していたホンダチームアジアの青山博一監督以来の快挙でした。そのとき青山は表彰台で涙を流しました。。
「俺は絶対に泣かないって思ったけれど、国歌を耳にしたときに、ちょっとうっときました。表彰台から見えるのは、知っている景色。あぁ、日本GPで勝てたんだなって思いました」
「表彰台ならうれしい」と語っていた藍が、一気に優勝を勝ち取った瞬間でした。
翌2023年はウイーク直前に体調を崩し、発熱した状態からスタート。それでも決勝日には回復し、2位でゴール。2年連続表彰台を獲得しました。
「昨年の日本GP(2024年)は天候不順に見舞われました。小雨が降ったりやんだりする予選で9番手グリッドを獲得。曇天の決勝は好スタートを決め、2コーナー立ち上がりまでに2番手へ浮上しました。しかし雨粒が落ち、赤旗中断。雨はやんだものの路面は濡れたまま。ドライタイヤかレインタイヤかの選択に迫られる中、藍はドライタイヤで勝負。この選択が功を奏し、2位でゴール。日本GPで3年連続の表彰台を獲得しました。
「そして今年は初めての最高峰クラスでの日本GPです。さすがに4年連続表彰台は簡単ではないでしょう。
「目標は常に同じ。自分の出せるすべてを出して、そのレース、その結果をお客さんに楽しんでもらえればなと思います」
とにかく全力を尽くす。それが小椋藍です。しかしレースは何が起こるか分かりません。藍が最高峰クラスで臨む日本GPで表彰台を取れないとは、だれも言い切れないでしょう。
本文中に登場したレース用語をまとめました。
スペイン選手権。若手ライダーの登竜門として知られる。現在はレプソルFIMジュニアカップと名称を変更した。
エレクトリック・コントロール・ユニットの略。エンジンや電子制御を管理する共通コンピュータ。未承認ソフト使用は違反。
MotoGP™世界選手権の下位カテゴリー。Moto3™は小排気量クラス、Moto2™は中排気量クラス。
ヨーロッパを中心に行われるKTMのマシンを使った若手発掘シリーズ。将来のMotoGP™ライダー候補が集まる大会。
スペインを拠点にした新興チーム。Moto3™からMoto2™参戦へ拡大。
予選方式のひとつでFP(フリープラクティス)の上位10人(Moto2™とMoto3™は14人)がダイレクトでQ2(予選2)に進める。FPで速いタイムを出せなかったライダーはQ1(予選1)を走り、上位2人(Moto2™とMoto3™は4人)がはQ2を走って、上位グリッドをねらえる。決勝のスタート位置に直結。
レースや予選の進行が危険と判断された場合に赤旗が提示され、一時中断となるルール。
イタリアのバイクメーカーで、MotoGP™にも参戦。
アジア地域の若手ライダーを対象とした育成レース。MotoGP™参戦への登竜門。
決勝レースの最初の周回。順位変動が大きく、最も緊張感のある1周。
Moto2™で使用されるフレーム(車体)メーカー。カレックスはドイツ、ボスコスクーロはイタリアの企業。
練習やレース中の転倒。MotoGP™では速度が非常に高いため、大きなケガにつながることもある。
決勝レースのスタート位置。予選の結果によって決定される。
参戦する全ライダーが同じメーカーのタイヤを使用する規則。
MotoGP™で2023年から導入された短距離レース。土曜日に開催され、決勝のグリッドやポイントに影響する。
レース中にタイヤの摩耗や温度をコントロールし、性能を最後まで維持する技術。
乾いた路面用と濡れた路面用のタイヤ。選択を誤ると大きく順位を落とすことがある。
2024年からMotoGP™に参戦したアメリカの新興チーム。
レース用バイクや工具、装備を運ぶ専用車両。トランスポーターの略。
レースで3位以内に入賞したライダーが上がる壇上。優勝ライダーの国歌が流れ、ライダーとチームの栄誉を称える場。
レース中に天候や路面が急変した際、ピットでマシンを交換できるルール。ドライからレイン用など異なるタイヤへ乗り換えることが可能。MotoGP™クラスだけに適用されている。
フリー走行は調整用、プラクティスは公式の計時セッションで、予選進出を左右する重要なセッション。
子ども用の小さなバイク。多くのライダーがここから競技人生をスタートする。
レースで使用するマシンや部品は事前に承認(ホモロゲーション)が必要で、承認外の仕様を使うと違反となる。
ホンダが運営する若手育成チームで、アジアのライダーをMoto3™やMoto2™に送り込む。正式なチーム名は『イデミツ・ホンダ・チームアジア』
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